(2008年11月19日紙面掲載)
今年も「ミシュランガイド東京」がやってくる。2009年版は今週金曜日の発売だ。昨年の大騒ぎでは2つの反応がみられた。ひとつは掲載店に予約が殺到したこと、これは予想できた。意外だったのは、想像以上の数の「評価に疑問」という意見が、プロ・アマ問わずネット空間で発信されたことだ。私にはそれが、権威の力が相対的に低下する「フラット化する社会」(T.フリードマン)を象徴しているようにも見える。
◇ ◇ ◇
あらゆる評価システムは信用されて初めて価値をもつ。そしてその信用は誰が評価するか、どんな方法で評価するかによって決まる。
かつて評価・批評を担ったのは専門家だ。グルメに限らず書籍、映画、クルマ、オーディオまで、批評には経験と専門知識が必要であり、それは職業としても成立するくらい特別なもと考えられた。消費者はその評価を選択の参考にしていた。
ところがネットが状況を一変させる。批評機能を担う主体は消費者自身となり、それを共有するCGM(消費者参加型メディア)となる。価格コム、アマゾン、食べログ、映画生活、YouTube、ミクシィまで、レビュー機能をウリにするサイトは多い。
この新しい評価システムの特徴はモノサシを自分自身に置いていることだ。良し悪しを批評する際、できるだけ客観的であろうとしたのが専門家時代だとすれば、ネットレビューは個人の好き嫌いや満足度が数字やコメントとなってあらわれる。
これは企業にとってつらい時代の到来である。以前は企業のみが所有する情報だった顧客満足データが消費者と共有されるものになり、購買時の判断に使われてしまうからだ。必然的に企業の優位は低下する。それは「顧客主導への転換」というマーケティングのパラダイム転換を促す要因でもある。
プロによる「品質評価」(理性)に依拠するミシュランに異議申し立てが多数寄せられたのは、今や評価視点が、こうした「顧客満足」(感情)にシフトしたことの表れといえる。ミシュランとよく比較される「ザガット・サーベイ」の評価の数字に疑問の声が少ないのは、読者アンケートで採点されるからであろう。
ユーザー評価は誰でも気軽に参加できるよう、星による五段階評価や百点満点での採点が使われる。多数の評価者がいるので、情報を集約するにはどうしても平均値が重視される。ウェブサイトでは評価順の並べ替えも容易なので、企業も消費者もランキングにばかり関心が行きがちだが、活用には注意も必要だ。
多くの統計で統計の本質は平均値だけでなく「分布」にも現れる。同じ平均 3.0でも全員が3を付けているものと、1と5に分かれているものでは解釈が異なる。ある人が絶賛する商品が、他の人から酷評されるのは、本来売るべきでない人に売ってしまった結果だ。例えば「iPhone」はそうした分布を見せる。
また調査手法の違いは大きく結果を左右する。映画好きの集まる交流サイト「映画生活」と、劇場公開初日の出口調査による「ぴあ満足度ランキング」とは評価の異なることが多い。ジョン・ウー監督の「レッドクリフ」はぴあの平均満足度83.6点に対し、映画生活では67.3点にとどまる。ぴあで昨年の満足度年間ランキング2位だった木村拓哉の「HERO」は、映画生活では100位にも入らない。これには消費者も戸惑うだろう。
点数による評価やランキングへの依存は、多様性や個性の喪失につながる可能性がある。集約された数字は往々にして細部を殺していまうが、人間の感情に影響をあたえるのがその細部だったりもするからだ。映画評論家の故淀川長治氏には「どんなつまらない映画でも必ずいいところがある。それを拾ってみんなに説明するのが私の使命」という有名な言葉がある。ランキングに頼るのは効率的だが、それと引き換えに失うものもあるに違いない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。